在日大韓基督教会 広島教会
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2023年4月7日 聖金曜日礼拝式順・説教
〇黙 祷
〇招 詞 イザヤ(이사야) 53章 4~5節
〇讃 頌 讃頌歌 146
〇祈 祷
〇聖書奉読 マタイによる福音書(마태복음) 27章 11~26節
〇讃 頌 讃頌歌 150
〇聖書奉読 マタイによる福音書(마태복음) 27章 27~44節
〇讃 頌 讃頌歌 147(1, 2節)
〇讃 頌 讃頌歌 147(3, 4節)
〇説 教 「『なぜ』と共にいる神」
〇信仰告白 使徒信条
〇交 わ り 主の食卓を囲んで
〇頌 栄 讃頌歌 149(4節)
〇主 祈 祷 主の祈り
【 2023年 4月 7日 聖金曜日礼拝説教(要約版)】
「『なぜ』と共にいる神」 マタイ27章11~26節, 27~44節, 45~56節
今、、私たちはマタイによる福音書を通して、ピラトの尋問から始まって、イエスさまが十字架の上で息を引き取られるまでの場面を読みました。先の主日に、神さまの沈黙の話しをしましたが、今日の御言葉の中では、イエスさまの沈黙が示されています。
イエスさまはピラトから「おまえはユダヤ人の王なのか」と問われたときに、「それはあなたが言っていることです」(11節)と答えられますが、それ以降、死刑判決を受ける時も、兵士から侮辱されるときも、十字架につけられるときも、十字架上で多くの罵りを受けられても、イエスさまは言葉を発せられませんでした。想像を絶する痛み、苦しみの中でも沈黙を守り通されています。
それが三時ごろ、突然イエスさまは大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。)」(46節)
マタイによる福音書では、十字架上のイエスさまの言葉は、この言葉だけなんですね。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
この言葉をどのように受け取るかは、難しい問題となります。十字架の下でこの言葉を聞いた人々は、47節にあるように、イエスさまが預言者エリヤを呼んでいると思ったようです。
この十字架の叫びには、大きく分けると三つのとらえ方、解釈があります。一つは、絶望と受け取る解釈、もう一つは、希望と受け取る解釈、そして三つ目は、その間と受け取る解釈です。
まず、叫びを絶望と受け取る解釈ですが、この言葉どおり、イエスさまは神さまに「見捨てられた」という絶望を味わっているという解釈です。
それは、神さまというお方は、私たちと同じ苦痛を味わうお方なのです。この十字架にイエスさまが人間として地上に生まれてきた姿が現されています。苦難の時に人間が絶望してしまうこと、それを神さまは身をもってよくご存じです。人が絶望を感じるのは、たとえば自分や、身近な人の死です。戦争や災害や病気など、その中で死を迎えるとき、美しい死ばかりではありません。絶望しながら、苦痛の中で死を迎えてゆくということは確かにあります。
神さまを信じられなくなるような出来事、死は確かにあります。その無惨な死を味わったのがイエスさまだったのです。この解釈は暗い解釈ですけれども、それほど私たちの死の苦しみを知って下さっているイエスさま、神様の姿と、とらえることもできます。
それから、二つ目の解釈として、この叫びは希望だという、まったく正反対の解釈です。このイエスさまの最期の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、詩編22編の冒頭の言葉であるのですが、詩編22編は苦難から希望へ変わっていく詩となっていて、苦難の中でも神さまを信頼する信仰が歌われています。それで、イエスさまも、この詩編の言葉のように、「絶望の中でも神さまを堅く信頼し続ける」ということを言い表そうとしたと考えるわけですね。イエスさまはやっぱり苦難の中でも揺るがずに、神さまを堅く信頼し続けたのだという解釈になります。
それから、三つ目の解釈はその間ともいえる解釈です。全くの絶望、全くの希望どちらでもない、その中間的な解釈です。今では、この解釈がこの解釈が広がりつつあり、私もそのような叫びだったのではないかと思っています。
では、どのような解釈かと言いますと、まず、この解釈では叫びの中の「レマ」という言葉に注目をします。「レマ」それは「なぜ」という意味の言葉です。特に目的や理由を尋ねる時に使われる言葉です。
イエスさまの叫びは、絶望と希望の中間にある「なぜ」を問い続けた叫びだったということです。イエスさまの最期の叫びは、「なぜ」という神さまへの懸命な問いだったのです。
神さまを信頼していたのに「なぜ」このような苦痛があるのか、神さまを信頼して来たのに「なぜ」このような死を迎えるのか、と疑問をぶつけながら死んでいったのがイエスさまの死だったのです。「なぜ」「なぜ」「なぜ」と神さまにその苦難の理由と目的を問いながら、死んでいったのがイエスさまの死です。
イエスさまは想像を絶するような苦難、絶望の中にいます。しかしその一方で、イエスさまは神さまに呼び掛け続け、理由を尋ね続け、神さまとの関係を諦めてはいません。最後の最後まで神さまに呼びかけ、諦めることなく「わが神」「なぜ」と呼びかけ続けているのです。
私もイエス・キリストの十字架はそのような出来事だったのではないかと思います。まったく絶望しきっていたわけではないでしょう。またこのような苦痛の中でも神を信頼し続けるといった、単純な事柄ではなかったと思います。
苦難の中でイエスさまは懸命に「なぜ」と神さまに向けて問い続けたのです。そして、その叫びの先にこそ神さまがおられたのではないでしょうか。誰よりもその叫びをしっかりと聞き取っていたのが神さまだったのではないでしょうか。イエスさまが「なぜ」と叫ぶ、神さまは沈黙をしたまま、それでも、そのただ中に神さまと出会いがあったのではないでしょうか。
私たちもこの「なぜ」と言う言葉をよく圧するのではないかと思います。私たちの祈りは、自分の願いを除けば、「なぜ」という言葉なかりではないでしょうか。イエスさまの状況から比べれば大したことのない状況であっても、私たちはすぐに「なぜ」「神さま、なぜですか」と問い続けております。私たちは問い続けても、なかなか答えを得ることが出来ません。
皆さん、イエスさまもそうだったのです。イエスさまが「わが神、わが神、なぜ?」と問われても神さまの答えは与えられなかったのです。だからこそ、私たちは十字架の主に目を向けなければなりません。なぜなら、十字架のイエスさまの姿から、その問いの先に、その中に神さまがきっとおられることが見えてくるからです。そのような「なぜ」という叫びの中で、私たちも神さまに出会うことが出来るからです。
私たちはこれからも「なぜ」と、問いかけ続けるでしょう。絶望と希望、暗さと明るさ、悲しみと喜びの狭間で、「なぜ」と神さまに問い続けていくでしょう。何に向かってゆけばよいのか、何のためにこの苦難があるのかを問います。その問いと共に、問いの中にきっと神さまがおられます。必ずそこに、神さまとの出会いがあるはずです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、“なぜ”私を見捨てるのですか」今日、その問いの中で、神さまとまた出会ってゆきましょう。お祈りいたします。
2023年4月7日 聖金曜日礼拝式順・説教
〇黙 祷
〇招 詞 イザヤ(이사야) 53章 4~5節
〇讃 頌 讃頌歌 146
〇祈 祷
〇聖書奉読 マタイによる福音書(마태복음) 27章 11~26節
〇讃 頌 讃頌歌 150
〇聖書奉読 マタイによる福音書(마태복음) 27章 27~44節
〇讃 頌 讃頌歌 147(1, 2節)
〇聖書奉読 マタイによる福音書(마태복음) 27章 11~26節
〇讃 頌 讃頌歌 147(3, 4節)
〇説 教 「『なぜ』と共にいる神」
〇祈 祷
〇信仰告白 使徒信条
〇交 わ り 主の食卓を囲んで
〇頌 栄 讃頌歌 149(4節)
〇主 祈 祷 主の祈り
【 2023年 4月 7日 聖金曜日礼拝説教(要約版)】
「『なぜ』と共にいる神」 マタイ27章11~26節, 27~44節, 45~56節
今、、私たちはマタイによる福音書を通して、ピラトの尋問から始まって、イエスさまが十字架の上で息を引き取られるまでの場面を読みました。先の主日に、神さまの沈黙の話しをしましたが、今日の御言葉の中では、イエスさまの沈黙が示されています。
イエスさまはピラトから「おまえはユダヤ人の王なのか」と問われたときに、「それはあなたが言っていることです」(11節)と答えられますが、それ以降、死刑判決を受ける時も、兵士から侮辱されるときも、十字架につけられるときも、十字架上で多くの罵りを受けられても、イエスさまは言葉を発せられませんでした。想像を絶する痛み、苦しみの中でも沈黙を守り通されています。
それが三時ごろ、突然イエスさまは大声で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。)」(46節)
マタイによる福音書では、十字架上のイエスさまの言葉は、この言葉だけなんですね。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
この言葉をどのように受け取るかは、難しい問題となります。十字架の下でこの言葉を聞いた人々は、47節にあるように、イエスさまが預言者エリヤを呼んでいると思ったようです。
この十字架の叫びには、大きく分けると三つのとらえ方、解釈があります。一つは、絶望と受け取る解釈、もう一つは、希望と受け取る解釈、そして三つ目は、その間と受け取る解釈です。
まず、叫びを絶望と受け取る解釈ですが、この言葉どおり、イエスさまは神さまに「見捨てられた」という絶望を味わっているという解釈です。
それは、神さまというお方は、私たちと同じ苦痛を味わうお方なのです。この十字架にイエスさまが人間として地上に生まれてきた姿が現されています。苦難の時に人間が絶望してしまうこと、それを神さまは身をもってよくご存じです。人が絶望を感じるのは、たとえば自分や、身近な人の死です。戦争や災害や病気など、その中で死を迎えるとき、美しい死ばかりではありません。絶望しながら、苦痛の中で死を迎えてゆくということは確かにあります。
神さまを信じられなくなるような出来事、死は確かにあります。その無惨な死を味わったのがイエスさまだったのです。この解釈は暗い解釈ですけれども、それほど私たちの死の苦しみを知って下さっているイエスさま、神様の姿と、とらえることもできます。
それから、二つ目の解釈として、この叫びは希望だという、まったく正反対の解釈です。このイエスさまの最期の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、詩編22編の冒頭の言葉であるのですが、詩編22編は苦難から希望へ変わっていく詩となっていて、苦難の中でも神さまを信頼する信仰が歌われています。それで、イエスさまも、この詩編の言葉のように、「絶望の中でも神さまを堅く信頼し続ける」ということを言い表そうとしたと考えるわけですね。イエスさまはやっぱり苦難の中でも揺るがずに、神さまを堅く信頼し続けたのだという解釈になります。
それから、三つ目の解釈はその間ともいえる解釈です。全くの絶望、全くの希望どちらでもない、その中間的な解釈です。今では、この解釈がこの解釈が広がりつつあり、私もそのような叫びだったのではないかと思っています。
では、どのような解釈かと言いますと、まず、この解釈では叫びの中の「レマ」という言葉に注目をします。「レマ」それは「なぜ」という意味の言葉です。特に目的や理由を尋ねる時に使われる言葉です。
イエスさまの叫びは、絶望と希望の中間にある「なぜ」を問い続けた叫びだったということです。イエスさまの最期の叫びは、「なぜ」という神さまへの懸命な問いだったのです。
神さまを信頼していたのに「なぜ」このような苦痛があるのか、神さまを信頼して来たのに「なぜ」このような死を迎えるのか、と疑問をぶつけながら死んでいったのがイエスさまの死だったのです。「なぜ」「なぜ」「なぜ」と神さまにその苦難の理由と目的を問いながら、死んでいったのがイエスさまの死です。
イエスさまは想像を絶するような苦難、絶望の中にいます。しかしその一方で、イエスさまは神さまに呼び掛け続け、理由を尋ね続け、神さまとの関係を諦めてはいません。最後の最後まで神さまに呼びかけ、諦めることなく「わが神」「なぜ」と呼びかけ続けているのです。
私もイエス・キリストの十字架はそのような出来事だったのではないかと思います。まったく絶望しきっていたわけではないでしょう。またこのような苦痛の中でも神を信頼し続けるといった、単純な事柄ではなかったと思います。
苦難の中でイエスさまは懸命に「なぜ」と神さまに向けて問い続けたのです。そして、その叫びの先にこそ神さまがおられたのではないでしょうか。誰よりもその叫びをしっかりと聞き取っていたのが神さまだったのではないでしょうか。イエスさまが「なぜ」と叫ぶ、神さまは沈黙をしたまま、それでも、そのただ中に神さまと出会いがあったのではないでしょうか。
私たちもこの「なぜ」と言う言葉をよく圧するのではないかと思います。私たちの祈りは、自分の願いを除けば、「なぜ」という言葉なかりではないでしょうか。イエスさまの状況から比べれば大したことのない状況であっても、私たちはすぐに「なぜ」「神さま、なぜですか」と問い続けております。私たちは問い続けても、なかなか答えを得ることが出来ません。
皆さん、イエスさまもそうだったのです。イエスさまが「わが神、わが神、なぜ?」と問われても神さまの答えは与えられなかったのです。だからこそ、私たちは十字架の主に目を向けなければなりません。なぜなら、十字架のイエスさまの姿から、その問いの先に、その中に神さまがきっとおられることが見えてくるからです。そのような「なぜ」という叫びの中で、私たちも神さまに出会うことが出来るからです。
私たちはこれからも「なぜ」と、問いかけ続けるでしょう。絶望と希望、暗さと明るさ、悲しみと喜びの狭間で、「なぜ」と神さまに問い続けていくでしょう。何に向かってゆけばよいのか、何のためにこの苦難があるのかを問います。その問いと共に、問いの中にきっと神さまがおられます。必ずそこに、神さまとの出会いがあるはずです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、“なぜ”私を見捨てるのですか」今日、その問いの中で、神さまとまた出会ってゆきましょう。お祈りいたします。